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1507年にはムハンマド・シャー系イマーム・シャー・ラーズィー・アッディーンがバダフシャーンにあらわれ勢力を確立している。その子とも思われるムハンマド・シャー系でもっとも有名な16世紀初のイマーム、シャー・ターヒル・フサイニーは当初サファヴィー朝に仕えたがシャー・イスマーイール1世の疑いを受けてイランから追放されデカンへ赴いた。デカンのアフマドナガルでは地元のニザーム・シャー朝ブルハーン・ニザーム・シャーに仕え、十二イマーム派法学やスーフィズムの解説書を著して学者として名を残す一方で、政治家としても活躍した。ニザーム・シャー朝の十二イマーム派への改宗は彼によるものといわれている。子孫はのちにアウランガーバードに移った。バダフシャーンでのムハンマド・シャー系イマームとしては1660年ころフダーイ・バフシュが記録されており、インドにおいては1796年アミール・ムハンマド・バーキルが記録に残るムハンマド・シャー派の最後のイマームである。 一方のカースィム・シャー派が姿を現すのは15世紀半ばころからである。カースィム・シャー派は一方でニアマトゥッラー教団に属するスーフィーのタリーカとして活動した。カースィム・シャー派はイラン中央部のアンジェダーン(マルキャズィー州・アラークの東約40km)に外来のスーフィー・シャイフとして姿を現し、ムスタンスィル・ビッラー2世(1480年没)を名乗るイマームのもとサファヴィー朝と十二イマーム派スーフィー・タリーカの援助を受けて勢力を拡大した。これを現在のニザール派は「アンジェダーンの復活」と呼んでいる。アンジェダーンのイマームたちは、シーア化するイランの混乱に乗じて十二イマーム派の名の下でニザール派の勢力を拡大するほか、外国為替証拠金取引 のニザール派の再統合に努めた。前述の通り、中央アジアやインドなど各コミュニティはイマームの代理者としてピールを称する地元有力者が独自に活動を続けていた。イマームは各コミュニティにダーイーを派遣、あるいは自らの投資信託 を配布した。インドのサトパンスィーのようにイランのイマームの権威を拒否したニザール派もいたが、この時代にニザール派は再びイマームの下に統合が成し遂げられてゆく。 しかしながら、サファヴィー朝と十二イマーム派でもそのシャリーアや教義を厳格に解釈する人びともおり、ニザール派としての活動の幅はせばまることになった。前述のシャー・ターヒルの追放はそのあらわれといえよう。1574年には第36代イマーム、ムラード・ミールザーがシャー・タフマースプに処刑され、タキーヤにより十二イマーム派スーフィーの装いで生き延びていった。第40代イマーム・シャー・ニザール(1722年没)のとき、アンジェダーンからマハッラト周辺の村に移った。さらに世紀半ばにはアフガーンの侵入とサファヴィー朝滅亡後の混乱の中、インドのコミュニティに近いイラン東部ケルマーンのシャフレ・バーバクに移動している。 彼らは混乱する情勢を利用してケルマーンで勢力を拡大した。第44代イマーム、サイイド・アブルハサン・カハキーは1756年、ザンド朝のカリーム・ハーン・ザンドによりケルマーンのワーリー(太守)に任じられた。1792年にアブルハサンが没し、シャー・ハリール・アッラーが継承、ヤズドへ移った。1817年にハリール・アッラーが群衆に殺されると、ハサン・アリー・シャーが継承した。ハサン・アリー・シャーはガージャール朝のファトフ・アリー・シャーによってゴム太守に任じられ、マハッラトに領地を与えられた。さらにファトフ・アリー・シャーの娘と結婚、「アーガー・ハーン」の称号も与えられている。モハンマド・シャーの時代にはケルマーン太守に転ずるが、やがて確執を生じ、1841年イランを出て、1848年ムンバイへと移った。 ハサン・アリー・シャーすなわちアーガー・ハーン1世は日経225 の権威と裁定を背景に地元ニザール派コミュニティたるホージャー派におけるイマームの地位を取り戻すことに尽力し、大きな影響力を資産運用 して1881年に亡くなった。息子アーガー・ハーン2世の短い在位ののち、1885年その子アーガー・ハーン3世が立つ。アーガー・ハーン3世は72年にわたるイマーム位において、世界各地のイスマーイール派の再結集をおこなう一方、イスラーム改革派の政治家・思想家として卓越した業績を残した。議会制の標榜、イスラームにおける女性の人権についての再解釈、教育などの社会福祉向上を目的として活動して、ヨーロッパの上流階級ともたびたび交流し「殿下」の称号で呼ばれた。1957年アーガー・ハーン3世が没し、孫のアーガー・ハーン4世があとを継いだ。彼も祖父の方針を維持してパリを中心とする「アーガー・ハーン開発財団」Agha Khan Development Networkを組織、パキスタン・アフガニスタンなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またアフガニスタンのイスマーイール派はさまざまな形でアフガニスタン内戦におけるアクターとして活動した(インド移住後の動きの詳細はホージャー派、アーガー・ハーンおよび各アーガー・ハーンの人物記事参照)。 現在ニザール派信徒はインド、パキスタンを中心にアフガニスタン、中国、タジキスタンなど中央アジア・インド方面、タンザニアを中心とする東アフリカ、ミャンマーを中心とする東南アジア方面、そして欧米に数百万人を数える。ブーリー朝(The Burid Dynasty、??????) は12世紀初頭にダマスカスを支配したテュルク系の王朝(アタベク政権)である。その創設者、トゥグ・テギーンはシリア・セルジューク朝をアレッポとダマスカスに分裂させて戦う兄弟のうち、ダマスカスの王ドゥカークのアタベク(後見役)として仕えていた。彼をはじめ、歴代のブーリー朝の支配者たちはブーリを除いては西洋人キリスト教徒と戦うより、むしろその支配を認める道を選んだ。 ドゥカークが1104年に早世すると、トゥグ・テギーンがダマスカスの実権を握ることになる。トゥグ・テギーンはドゥカークの子で1歳ほどのトゥトゥシュ2世、ついでドゥカークの弟のエルタシュを相次いで立ててそのアタベクとなるが、エルタシュはトゥグ・テギーンの権勢を怖れてダマスカスから逃亡した。その結果、トゥグ・テギーンがダマスカスを支配し世襲するようになり、ダマスカスのセルジューク政権は断絶した。 トゥグ・テギーンのFX 政権はエルサレム王国と休戦し、ダマスカス〜エルサレム間の地域の収穫を分け合うことなどを決め、シリアにおける十字軍国家群の事実上の支配を許し、それを利用して互いに助け合うなどダマスカスの生き残りを図った。バグダードの大セルジューク朝のスルタンが十字軍からシリアを奪還しようと行った遠征の際は、領土をスルタンに奪われるという恐れと利害が一致した十字軍諸侯と連合軍を組んでダマスカスを防衛し、スルタンを追い返した。以後長年十字軍諸侯と接触を保ちながらダマスカスに君臨し、十字軍と連絡を取り合うニザール派(暗殺教団)と、北からのアンティオキア公国の、双方の脅威が高まる1128年、息子ブーリを跡継ぎにして亡くなる。 ブーリは即位後ニザール派を大規模に粛清し、市内のニザール派信徒とエルサレム王国とが共同で進めていた「ダマスカス占拠作戦」を直前で阻止した。同年、ダマスカスを攻略しようとするエルサレム王ボードゥアン2世をはじめとする十字軍諸国連合とテンプル騎士団の連合軍と戦ってこれを撃退し、ニザール派と西洋人という最大の危機を乗り切った。しかし1130年には、ダマスカスに野望を持つアレッポの新しいアタベク政権の主、ザンギーに騙され、共同で十字軍攻撃に向かおうとしてザンギーの元へ出発させた将兵や次男サウィンジを人質にされるという屈辱を受ける。彼は巨額の身代金で一同を釈放させたが、以後ダマスカス市民はザンギーを忌み嫌うようになった。ブーリはその後ニザール派の教団員に襲われた傷が元で、 1132年に早世する。 ブーリの息子イスマイルは武勇で知られ、1132年にはバニヤース砦をニザール派から奪うなど軍事面での成果があったが、頑固な性格で多くの敵を作り、増大する軍事費に市民は離反し始めた。やがて自分に対する暗殺の動きがあることを知り疑心暗鬼に駆られ、弟サウィンジをはじめ宮廷内外のあらゆる者たちを処刑し始める。収拾のつかなくなった彼は、 1135年、シリアで急速に勢力を増大するアレッポのザンギーにダマスカスを明け渡そうとするが、ザンギーを嫌う市内の有力者たちはイスマイルの母ズムッルド妃に相談した。妃は部下たちに命じ息子イスマイルを殺害させ、もう一人の息子マフムードを擁立した。 ザンギーはこれを知らずダマスカスに入城しようとしたがすでに都市はザンギーを迎え撃つ準備をしていた。交渉は流れ、ダマスカス攻略が開始されるが、都市の実権を握ったトゥグ・テギーンの旧友の武将ムイーヌッディーン・ウナルの前に攻撃は困難と悟りとりあえず休戦協定が結ばれた。ダマスカスは形式的にザンギーの宗主権を認め人質を送ったが、ザンギーを追い返すことに成功した。ザンギーは帰りがけにダマスカス支配下の町ホムスを奪おうとしたが、ホムスからの救援を受けウナルが入城・統治し、ザンギーはまたもウナルに屈することとなった。